第五章 釧路正教会聖堂建立と教勢の低迷
第1節 セラヒム湊修道輔祭と標津原野武佐教会

 内田司祭が釧路に赴任した時の道東の教勢は次の通りである(大正11年度公開議事録)。

教会 戸数 信者数
釧路 42 192
根室 15 52
斜古丹 20 76
網走 54 241
帯広 24 98
標津 15 60
合計 170 719

 網走には、網走町ニクルバケ(現・東藻琴)に小川伝教者が配置され、その他は司祭直轄で牧野は広大である。
 標津教会のメトリカ(信徒記録簿)を見ると、セラヒム湊輔祭は、1921年(大正10年)11月から大正12年11月まで、標津原野で内田司祭の未信者洗礼に補祭として付かれ、大正13年1月には標津原野の一信者の埋葬式を単独で行っている。しかし、この件については議事録を見ても湊輔祭の標津赴任もなく、師の住所は東京市神田区東紅梅町6となっている。修道輔祭セラヒム師は大正6年の公会で本会に転任し、後任として副伝教者中川享師が根室に赴任している。中標津町史を見ると、上武佐ハリストス正教会歴代の管理者の中に「修道司祭湊福太郎(大正12年~13年)」とある。
 フィリップ伊藤兄が、明治30年に薫別で受洗した際、モイセイ湊師は根室から20里の道を薫別まで赴き、フィリップ兄の受洗に立ち会っている。師が大正6年根室を去るまで20余年、正教の伝道に刎頸の交わりのあった両人を思うと、公会の赴任命令を超越したものがあったように思われる(あるいは根室・標津の教勢を御心配なされた大主教の御配慮であろうか)。
 セラヒム湊師は、その後、本会に戻り修道司祭に叙聖され、昭和3年10月16日永眠。享年75歳。教会管理の雑司ヶ谷霊園に永寝なさっている。師は現在の岩手県山田町出身である。現山田教会のメトリカによると、師は明治13年3月30日、モイセイの聖名で伝教者イヤコフ古木師によって受洗(摂行洗礼であろう)されている。
 この年、釧路町に市制施行される(人口・4万2673人)。


  

第2節 関東大震災とセルギイ大主教の道東巡回

 1917年(大正6年)のロシア革命後、日本正教会は自給自足、独立財政の道を歩み、ようやくその体勢が緒に付かんとしている時、神の試練としてはあまりにも酷な出来事が起こった。
 大正12年9月1日に関東大震災が起き、ニコライ大主教記念の大聖堂が破壊され、地震によって生じた火災に聖堂内のすべての物が焼き尽くされた。10月2日、臨時公会が開かれ、ニコライ堂の復興が決議された。大聖堂の再建に当たってセルギイ大主教は、翌年より数度にわたって全国の信徒を訪問、募金を開始された。全国の正教会信徒も各自教会の独立経営に尽力するほかに、ニコライ堂の復興に信仰の灯を燃やして浄財を献金し、昭和4年10月15日に成聖式が行われた。これこそ正に日本正教会信徒によって築かれた大聖堂であり、各自教会の独立経営にも明るい前途が約束されたことと思う。復興資金を供出した教会名、信徒名を見て行くと、釧路管区の教会名、2代3代にわたる父祖名に感慨深いものがある。因みに、大正13年6月に金10円を献じたタラシイ森谷房治、昭和3年に金10円、4年には金50円を献じたフェオファン森谷勇親子の献金領収書が、いまなお森谷家(栄喜兄)に保管されている。
 セルギイ主教は、大正4年に道東を巡回し、大正10年に大主教に昇叙されているが、大主教時代には大正14年9月、滝川経由で帯広・釧路・根室・武佐・釧路・札幌、大正15年には名寄経由で上興部・紋別・渚滑・滝ノ上・紋別・遠軽・野付牛・網走・斜里・小清水・網走・野付牛・釧路へと、大正時代に計3回、道東を御巡回なさっている。当時の交通状況は、大正10年には根室本線が根室まで開通し、同年には名寄・野付牛・網走まで、地北線はすでに大正元年に網走まで、大正14年には網走―斜里間が開通し、内陸への交通は一段と便利になっていた。
 このうち、大正14年9月の御巡回について、『正教時報』、当時の『釧路新聞』、『十二位一体の聖使徒』から述べてみたい。
 9月1日。大主教は午後1時に滝川経由で幾寅に安着し、木造村長を訪ねている。村長並びに村の有志の懇請によって午後7時より村会議事堂で「神の実在と天地の主とハリストスの道」という演題で講話をなされ、百人余の聴衆に深い感動を与える。9月1日。大主教は午後1時に滝川経由で幾寅に安着し、木造村長を訪ねている。村長並びに村の有志の懇請によって午後7時より村会議事堂で「神の実在と天地の主とハリストスの道」という演題で講話をなされ、百人余の聴衆に深い感動を与える。
 木造村長は、イオアン木造右衛元伝教者で、伝道学校卒業後、伝教生として明治30年に札幌教会管轄の市来知に配置になり、同37年4月に稚内で伝教者の職を退き、官に仕え、この時、幾寅の村長を務めていた。
 9月2日。午前9時58分幾寅発、途中新得に下車、徒歩で上佐幌原野にアキラ鈴木、メホディ佐藤の諸兄を訪ね、午後5時13分新得発、6時34分帯広着。旅館に一泊。
 当時の帯広の教勢は人舞(現新得)・止若(現幕別)・池田・足寄を合わせても信者戸数9戸、信者54名で、明治42年にセルギイ主教に献じた教会もなく、止若のイオアン笹井兄宅を帯広昇天教会としており、イオアン笹井、アンドレイ斎藤(以下帯広在住)、イオアン千葉、釧路教会の議友を務めたペートル坂本岩男の諸兄らを中心として堅信を誓い合っていたようである。大正4年にセルギイ主教が来帯された時の信者戸数22戸、信者86名にほど遠く、大正6年のロシア革命以後、日本正教会縮小の後遺症が道東の帯広町にも及んでいたのであろう。
 9月3日朝、中士幌にルカ福田兄を訪問予定のところ、兄は転任早々で都合悪しくとある。ルカ福田兄は明治30年に薫別の山中で伊藤兄とともにイグナティ神父より洗礼を受け、その後、軍隊に入隊し、官に仕えて(警察でなかろうか)植別村・羅臼その他を経て中士幌へ転任して来たのであろう。このように支庁・警察・裁判所・鉄道に奉職した信者の移動は止むを得ないことであるが、それだけに、道東のような広大な地域に散在する信者を牧する神父の御苦労は大変なことであったに違いない。
 9月4日。午前9時過ぎ白糠着。町内のカピトリナ田中姉を訪問(現釧路教会キリール田中一夫兄の祖母)する。その後、旅装を整え、徒歩一里余の東一線加里庶に住むペートル江本市次郎兄を訪問。市次郎夫妻は釧路教会に行って不在だったが、長男キリール正雄夫妻に歓待され、うどんを馳走になり、それより三里余の山奥のペートル福田兄宅までキリール兄が自家用馬車で大主教を案内した。道路は狭く、山深く、河川を馬車で11回も越えたほどであった。同夜、家人とともに座下の御祈祷、聖書の訓話あり、大主教は久し振りに御安眠出来たようである。
 白糠の古老によると、当時、白糠町逢別近くの「タンタカ」に駅逓があり、福田佐次郎氏が取扱人として住み、昭和8年に駅逓廃止後、氏は釧路を経て札幌に出られたようである。江本市次郎兄は、昭和14年4月に雄別炭鉱で殉職、直ちに荼毘に付され、内田神父によって5月30日に加里庶の小高い丘に埋葬された。当時のハリストス教の葬儀の模様をかすかに覚えていると、土地の古老は語っている。ペートル市次郎兄の墓標は朽ち果て、誰訪れる者もなく転た感無量を覚える。
 セルギイ大主教の釧路訪問については、9月2日付の『釧路新聞』に次のように報じられている。
「セルギイ大主教伝道の旅
東洋の教権を握る老師 釧路振出しに東部伝道(写真付き)
 本国ロシアの大動乱によって資源を断たれた彼の有名な駿河台の摩天楼、俗に言うニコライ教会堂日本ハリストス教会は、重ねて関東大震災に遭ひて半壊の惨を見たが、これが教権を握る大主教セルギイ博士は、この一大難局に処して、不撓不屈の試練当にこの秋にありとし、孤軍奮闘、頽瀾を既倒に廻すを得たのであるが、この奮闘大宗教家は恰も十年振りで、明3日午後7時25分着列車にて来釧のはずである。」
 9月5日、土曜日。キリール兄らに見送られ白糠駅午後2時31分発、3時21分釧路駅に着く。駅には多数の信徒が(中に露人ワシリイ兄の姿も見られた)出迎え、自動車で教会に着くや玄関先で美しい花束を捧げ、パンと塩を献じて大主教に敬意を表す。座下には天門前で祈祷を献じ、満堂の信徒に祝福を賜る。夜6時より内田神父は晩課を献ず。詠隊は四調音で、大主教にはマンティヤ(袖無しの外套のような床をひく薄地の祭服)を召され説教なさる。領聖者17、8名。午後より記念撮影後、開会祈祷に始まり、婦人会、青年会、日曜学校連合の祝賀会を催す。内田神父の釧路正教会の現況報告、次いで大主教より愛に満ちた説教訓話、後に婦人会代表ニーナ坂本、青年会代表ニキフォル野口、日曜学校総代マリヤ吉岡らの答辞あり、和気藹々の盛会となる。午後7時より大主教は釧路市主催の大講演会に招かれ、約2時間余の大講演をなさる。聴衆無慮800人内外、満場静粛に謹聴し拍手喝采裡に終わる、大正14年9月の『釧路新聞』に大主教の後援会の案内広告が次のように掲載されている。

哲学博士 神学博士 大主教セルギー師
 精神作興大講演会
  邦語ニテ独特ノ大雄弁ヲ振ワレマス
 場所 公会堂
 日時 9月6日午後7時ヨリ
   釧路市主催

 講演内容については、府主教セルギイ著『十二位一体の聖使徒』の序文にある府主教自らお書きになった文が最も適切であると思うので次に挙げる。
「釧路市においては、市役所自らその華麗なる公会堂に700人以上の聴衆を集めた。これはいずれも釧路市の精華とも言うべき人々であったに違いない。
<どういう演題で話しましょうか>
<ご自由に願います>
<宗教上の話をしましょうか>
<勿論です>
こうして、『神のこと、世界と人類の創造のこと、人類堕落のこと、ハリストスによるその救贖のこと』・・・これらの問題ついて、わたしの講演は2時間半続いたが、異教人たち(仏教徒および神道の信徒)は熱心に聴いた。のみならず、市長自らわたしを訪問して謝意を表した。」とお書きになっている。
当時の市長は二木市長であり、この頃の釧路市政は政争激しく、同市長は9月8日に愛知県内務部長に補せられ辞任するが、そのような状況下で、大主教の講演を市主催で求められたことに敬意を表し、改めて大主教の偉大さが、古き時代の新聞を通して躍如たるものがあり、深い感銘を覚える。
9月7日。大主教は釧路市内の16戸の信徒宅を祈祷訪問、翌日は朝早くから郡部海岸沿いの春採5戸、オコシナイ(現興津)1戸、桂恋1戸、ピツツイ2戸、昆布森の1戸を𢌞家され、ここより三里、上別保炭山越えで帰路に着かれたが、途中列車の発車時間が迫り、半里ほど駆け足でようやく別保駅発の列車に間に合ったほどであった。
 9月9日。朝6時釧路発。7時55分厚岸着。フェオドラ栃内姉を訪問、その日のうちに根室に着き、ロギン狩野兄宅に一泊なさる。
 9月10日。狩野兄の案内で郡部温根沼のヤコフ小島兄、穂香のカルプ狩野兄(万五郎の実弟)を訪問、座下はこの時、往復6里を歩かれている。午後には市内のヤコフ丹羽、ウエラ久下、マトフェイ松本の諸兄宅を訪問、晩には狩野兄宅で座下の祈祷並びに『モイセイの律法』について説教をなさる。
 9月11日。朝早く根室発。9時39分厚岸着。ここより馬鉄に乗り換え、雨の中12里、中標津に向かう。途中、人家もなく山また山、昨夜歩行した巨熊の足跡を見て驚いたり、馬車がひっくり返ったり、大主教の蝙蝠傘が折れるなどの事故があったが、ともかく無事5時前に中標津に着き駅逓に泊まる。晩、キリイル正木兄の願いにより、当地の未信者20人ほどに座下が説教をなさっている。
 9月12日、土曜日。タラシイ森谷兄(現釧路教会ウラシイ森谷兄の祖父)の馬車で雨中三里、武佐に着く。休息後、ポルフィーリイ矢本兄、フィリップ工藤兄の案内で信徒9戸を訪問。この時、領洗後まもなく冷信となり誰の勧めも聞かず、教会の祈祷に来なくなった足の悪い一信者ゾシマ坂口が、不思議にも信仰に目覚め、大主教がその家を訪ねると、喜んで祈祷を受け、座下に今後の信仰を誓い、その夜は足の不自由もいとわず参祷し、内田神父に熱心に痛悔した。「100疋のうち99疋の中の一人なりき」と神父は特筆している。晩課祈祷後、フィリップ伊藤繁喜兄のためにパニヒダを献ぜられる。
 9月14日。大主教は昨夜遅く釧路教会にお帰りになったにもかかわらず、雄別鉄道で舌辛(現阿寒町)に村長イオアン見代兄を、午後には人力車で市内のコルニリイ小山兄、イリナ斎藤姉を訪問なさる。午後6時、信者一同の見送りを受けて札幌へ向かわれた。
 大正14年度公会時の道東の教勢は次の通りである。

教会 戸数 信者数
釧路 33 177
根室 9 44
斜古丹 17 74
網走 30 130
斜里原野 16 96
標津 15 76
帯広 9 54
合計 129 651
 大主教は大正15年も名寄経由で、野付牛・網走・斜里を経由して再び釧路へお入りになっている。斜里をご訪問された時、斜里駅より徒歩で30分の初代教会を訪ね、西原野、東原野に散在している9戸の信徒に降福を賜っている。この時、斜里小学校で児童300名、大人100名の聴衆に2時間にわたる講演をなされたが、その時のことが現斜里教会のセルギイ熊谷養作兄の遠い記憶に残っている。
 大正15年には、道東の信徒59戸、今回は42戸、合わせて101戸、斜古丹教会を除いて、実に釧路教区のほとんどの信徒を訪問されている。市街地は言うに及ばず、人里離れた原野に、あるいは山深い谷間にその尊貴な玉歩を運ばれ、信徒に降福を賜り、神の恩寵を説き、彼ら信徒の霊糧を励ましておられる。まさに宣教の真髄ここに極まると言うも過言ではなかろう。
 


  


第3節 小川伝教者、網走を去る

 1930年(昭和5年)7月の公会における内田神父の管轄は、釧路・春採・桂恋・昆布森・白糠・茶路、東は根室・和田・歯舞・標津・国後・色丹、西は帯広・止若(現幕別)・池田・足寄であり、その上、今までパウエル小川師の担当区域であった網走・藻琴・止別・斜里・常呂・越川・野付牛・留辺蘂・生田原・択捉島・遠軽・興部・滝ノ上・紋別・上名寄が師の直轄として加わった。鉄道は根室本線・名寄本線・地北線が開通しており、釧網線は昭和6年に全通したが、広大な根釧原野に点在する信徒もおり、管轄内163戸の信徒宅の𢌞家祈祷、また葬儀出張等もあり、到底現在の我々には理解出来ない神父の東奔西走の御苦労のほど、察するに余りあると言うべきであろう。
 ちなみに、釧路―上名寄間は433km、釧路―根室間は136km、釧路―新得間は172kmである(道路でなく鉄道の営業距離。昭和6年9月までは釧網線が開通していないので、上名寄までは地北線経由として計算した)
 昭和5年の公会配置表によると、パウエル小川師は岩手県岩谷堂正教会(現岩手県江刺市)に転任となっているが、実際には昭和5年4月17日に網走を離れている。今まで教会を支えてきたダニイル田中千松兄は女満別へ、アニキタ立花宗三郎兄も子息とともに帯広に移り、南通り7丁目にあった網走正教会もこの年に閉鎖せざるを得なくなる。信徒も網走に4戸、藻琴に2戸、野付牛に4戸、その他遠く上名寄・興部・滝ノ上・佐呂間・下湧別に14戸ほど点在している状態であった。
 パウエル小川師は、慶応3年に秋田県横手町に生まれ、明治26年に渡道来根、同年7月、ティト小松神父により受洗、パウエル小川として篤信な正教徒となる。同年9月、標津漁業組合に勤め、掌院セルギイが薫別に巡回なされた際、「世捨て人のような漁師」として正教信仰の美しいまでの生活と賞賛なされている。
 師は、明治35年9月、東京神田の神学校へ入学、37年7月卒業、同年の公会で副伝教者に任命され、根室・釧路・色丹を牧会、明治45年、北見国網走正教会へ赴任し、以来、斜里・網走・野付牛・紋別・興部・上名寄までの広範な牧野を担当し、特に大正7年以後、正教会の自給自足態勢にも信徒・司祭と協力して網走の教勢を発展させ、維持なされたことは、聖なる伝教者、偉大なる伝教者と言うべきであろう。昭和8年、盛岡市加賀野新小路教会(現盛岡教会の前身)に移り、自給伝教者として会事に尽力、信徒に敬愛され、昭和20年5月5日、76歳で永眠された。墓は盛岡市の北山の教会墓地にある。
 なお、明治33年、パウエル小川師と婚姻された(この時、フィリップ伊藤繁喜兄が証人となっている)根室国和田村のロギン狩野万五郎兄の妹イリナてる姉は、前年の昭和19年10月15日に永眠している。
 昭和5年度公会議事録の景況表による道東の教勢は次の通りである。

教会 戸数 信者数
釧路 49 222
根室 15 47
斜古丹 23 95
網走 24 112
斜里原野 17 111
帯広 20 103
標津 15 79
合計 163 769
 


  

第4節 菊池伝教者、斜古丹聖三者教会へ赴任する

 マルク菊池長雄師は、明治40年の公会(伝教者の減員を決定)において、教団の財政逼迫にあたり自給伝教者となる。その後、伝教補助に任命され、大正3年に副伝教者より伝教者に昇叙されたが、大正7年に教会の自給自足、財政独立という時期に当面し、やむなく辞職する。大正13年4月、新天地を求めて道東標津郡標津村川上へ入植する。近くに標津原野武佐教会があったので、大祭、例祭の都度、教会へ行き、神父不在時には祈祷をするなど、内田神父に協力している。
 さらに師は、昭和6年に色丹島へ渡り、聖三者教会の伝教者を務め、昭和8年の秋頃に標津にお帰りになっている。当時の色丹の事情を述べるには、『上武佐ハリストス正教会開教七十周年史』に発表された根室のジノン石井徳雄兄の思い出が適当であると思われるので次に紹介する。
「色丹の教会は斜古丹中央に位置しており、当時としては学校に次いでトタン屋根の大きな教会でしたーー(中略)。私は生後60日でクリル人の養子となり、間もなく洗礼を受けたようです。神父は内田神父のようです。その後、4年生頃から2年ほどマルク菊池伝教者が派遣され、娘さんの歌子さんと教会に住み込んで伝教のかたわら、我々子どもたちの勉強を見てくださっておりましたが、生活費もままならず大変御苦労なされていたことを覚えております。
 毎朝、教会の鐘が鳴ると大半の信者は礼拝に来ておりました。12月25日の降誕祭には教会中に大きな松の木を立て、いろいろな物を飾り、信者はもちろん、村中の女・子どもや他の部落からまで大勢の人々が集まり、福引その他で大変なものでした。私が特に感じることは、代父母とその子どものつながりは本当の親子のつながりであったようで、今では考えられない人間のつながりでした。
 また、私の心に残っておるのは永眠者の葬儀で、通夜の晩には信者が交替で夜通し聖詠経を読み続けお祈りしていたことです。子どもの頃、仏教徒の人たちが『キリスト教は本当に有り難い。信者が皆でお祈りしてくれる。仏教にはそれがない。俺も死ぬ時はキリスト教だ』と言っていたのを何度も聞いております」。
 ちなみに、昭和7年の公会議事録景況表には、斜古丹は信徒現員96名、現戸35戸、供給額135円、伝教者はマルク菊池と載っている。

  

第5節 釧路聖神降誕聖堂、昭和7年に落成する

 明治35年に建てられた釧路教会は会堂で、司祭居室、祈りの部屋を併せた平屋建てであり、玄関の屋根に十字架が無ければ普通の家と変わりなく、その上、建築以来70年の星霜を重ね,雨漏りや床折れの状態で老朽甚だしく、議友・信者の間で何とかしなければならぬと、年来の懸案となっていた。
 釧路教会は明治末期より道東の管轄教会として教勢盛んとなり、昭和6年には信徒49戸、218名となっていた。聖堂の建立を実現するにはこの時機と、内田神父を中心に信徒の総意によって昭和6年に建設委員会を発足させ資金集めにかかった。その昭和6年は東北・北海道が大凶作となり、農家の子どもの出稼ぎ、身売りが続出し、昭和恐慌が極度に深刻化した年である。また満洲事変が起こり、昭和7年に5.15事件が勃発するなど、内外ともに多難な年でもあり、聖堂建設の時機としては最悪で、神父を含め釧路の信徒にとっては過酷な試練であった。  神父はじめ、議友の御苦労のほど察するに余りありと言うべきであろう。特に神父夫人ライサ内田姉は、市内信徒はもちろんのこと、遠く斜里・標津・白糠・帯広と東奔西走、熱心に聖堂再建を説き、資金集めに全身全霊を傾注されたと伝えられており、釧路教会として永く記憶すべきことであろう。
 神の配剤であろうか、大正末期から昭和初期にかけて当時の西幣前町に住み着いたイオアン・パンチューヒン、イグナティ・ベロノコフ、ワリシイ・ドウドロフ、ペトル・シェシミンチェフ(昭和16年5月永眠)、ワシリイ・ユーシコフ、アレキセイ・ぺルシン諸兄の共感を得て大口の寄付申し込みと、市内・地方信徒の零細ながらも心のこもった寄付金が集まった。残念なことに当時の寄付台帳が散逸し、これらの篤信者の氏名は不明であるが、現釧路教会のウラシイ森谷栄喜兄の尊父で、当時、標津村武佐在住のフェオファン森谷勇兄の献金、一金百円也の領収書が残っている。ちなみに、『正教時報』には「新聖堂の工事費は金700余円に達し、露人その他の信徒之を負担した」とある。また、鐘塔の柱に「大鐘、昭和7年8月、イオアン・パンチューヒン献納。小鐘、1968年11月埠頭ビル落成記念と刻まれている。
 かくして昭和7年10月、現在の場所に当時としては眼下に市川港湾を見下ろす小高い丘に、信仰の凝結した道東の管轄教会・聖神降臨聖堂が完成する。まさに釧路教会信徒の篤い志が一丸となった時、その信仰の上に神の御恩寵が満被されたのであろう。
 聖堂は木造平屋建て、横羽目板張りで66.11㎡の小柄な建物であり、その瀟洒で可憐な聖堂の上に鐘塔がきちんと納まり、尖塔にギリシャ正教特有の八端十字架が取り付けられ、白ペンキで塗装された白亜の聖堂そのものである。函館の聖堂がロシアの都会の完成された教会であるとすれば、釧路のそれは、ロシアの片田舎の素朴なまでに美しい教会と言えるのではなかろうか。この聖堂の設計者は、函館・白河・京都・修善寺の各教会を手がけたイオアン河村伊蔵輔祭であることを付記しておきたい。
 内陣も小振りながら漆喰で仕上げられており、至聖所、天門、左右に2枚ずつの聖像、祈りの間と、荘厳で神秘的な雰囲気を漂わせている。天門の5枚の生神女の福音と四福音記者一組の聖像は、日本最初の多色刷りの石版印刷である。宗教画家として著名な山下りん姉の肉筆による作品も3枚ある。「地球(創造物の象徴)を持つハリストス」、「主の洗礼」、「生神女像」である。主の洗礼聖像には「釧路正教会祈祷所公物 東京本会 明治30年7月備之」とあり、救世主の聖像には同じく明治33年3月と、制作年月日が記されている。これらは昭和7年、聖堂建立の際に掲置されたことと思われるが、記録、信者の記憶にも無く、神秘のベールに包まれたまま、何時までもいつまでも我々信徒を見守り続けることであろう。  昭和7年10月23日(日曜日)。府主教セルギイ座下司祷、札幌の岩間司祭、釧路の内田司祭、本会の河村輔祭陪祷で成聖式が行われ、続いて整体礼儀が執行された。釧路特有の秋の澄み切った青空に白亜の聖堂が朝陽に輝き、万国旗がひらめき、その聖堂周囲の十字行、青空に響き渡る教会の鐘の音は道行く人々の足をとどめ、釧路の一大盛事であったようである。集う信徒100名近く、遠く斜里・武佐・帯広からも管轄教会のこの盛事の祝いに駆け付けた。
 アベルキイ長屋与平治、イアコフ池田清五郎両兄が武佐から2日がかりで、途中、卵を売りながら馬車でこの成聖式に参祷している。その熱心な信仰が後年の2代目武佐教会となって結実する。
 24日午前、府主教の司祷で聖職者は感謝祈祷をささげ、同日多数の見送りを受けて帰途につかれた。
 成聖式後、内田神父は体調を崩される。聖堂建築の心労、大正11年に釧路に着任して以来、10年間の東奔西走の伝道、道東の寒気と霧が師の身体に病魔となって取りついたのであろうか。この年の12月、病気休職で東京に引き揚げる。昭和9年8月、トリーフォン佐藤議友が故イグナティ加藤師の四十日祭で上京のおり、休職静養中の内田師を駒沢の宅に見舞いに訪れたが、それが師との最後の会見となった。
 内田師はその後、郷里の埼玉県秩父町大野原へ居を移し、昭和13年8月23日、同地で永眠された。行年68歳。墓地は秩父町字大野原の広見寺にある。夫人のライサ姉は子息キリール紀道兄の住む札幌で昭和36年1月15日永眠。内田師の墓に埋葬されている。

 小鐘異聞

 前節で小鐘は、1968年11月埠頭ビル落成記念と鐘塔の柱に刻まれていると記したが、1968年とは昭和43年であり、聖堂の落成時期とはかなり時期がずれている。不思議に思い調査したところ、当時の執事ワルナワ金田三郎兄(昭和48年から54年まで釧路教会の執事長を務める。父君は小樽教会で古くからの篤信の信徒であり、現ペトル道夫兄の尊父である)が教会に寄付されたことが判明した。
 昭和43年10月1日、釧路に埠頭ビルが完成し(三菱鉱業雄別炭鉱の石炭積み出しを扱う)、釧路市の名士を招待して落成祝賀会を開催した。その際、記念品として青銅の小鐘を作り、招待客に贈呈した。当時ワルナワ兄は雄別炭鉱の釧路事務所長職にあり、祝賀会に招待された。小鐘は兄によって教会の鐘塔に収められたものである。埠頭ビルの専務永井清氏(後の社長)は熱心なキリスト教信者であり、落成記念として小鐘を選んだのも故あるかなと思う。

  

第6節 加藤長司祭、再度、道東へ赴任する

1932(昭和7)年12月、内田司祭の病気休職により、岡山の司祭イグナティ加藤師が長司祭に昇叙され、府主教の要請によって急遽同月釧路に赴任する。師は1897(明治30)年に根室に赴任し、同年釧路へ巡回され、ニコライ大主教に願ってアレキサンドル室越伝教者を釧路に送り釧路教会の興隆を図ったが、病気のため34年に信州へ転勤、今回再び道東の土を踏み、管轄教会となった釧路に赴任されたのである
 当時の根室教区は斜古丹・国後・根室・和田・標津・釧路であり、今回の師の管轄は、東は択捉・国後・斜古丹・根室・標津地区、西は白糠・池田・帯広・新得、北は斜里・網走・野付牛・紋別・遠軽・上名寄までの膨大な教区である。各地へは列車による巡回が可能となり、30年前とは隔世の感があったが、伝教者の配置は無く、師一人では大変なことであり、教勢の伸展は到底望み難く、守勢で手一杯と言うべき状態であったことであろう。
 師は赴任するにあたり、「30年前とは異なり、文化、教勢の発展、如何ばかりであろうか」と期待し、理想に燃えて着任なされたが、事実はこれを裏切って、「さながら古戦場を弔う感を覚えた」と述懐しているのは何故であろうか。
 明治34年と昭和8年の教勢を比較すると、釧路では信徒18戸、44人から、30年の星霜を経て、33戸139人と2倍になっているに過ぎない。当時のアンティパ藤原、ワッシアン鈴木の両兄はすでに永眠している。旧知の和田出身のコルニリイ小山兄、釧路で古い信徒のペートル坂本岩男兄は帯広へ移り、ともに師の着任を待たず同年に永眠し、信徒も世代交代の時期を迎えようとしている。師は古い信徒の信仰を温め、また彼らの2代3代目を掘り起こし、教勢の確立、教会の立て直しに東奔西走するのである。加藤神父の巡回記から当時の状況と師の心情に触れてみる。
 昭和8年3月12日。野付牛シブシナイ(若松地区)のワシリイ向井藤太郎兄の6女慶子の幼児洗礼を行う。ワシリイの父、三四郎は根室教会で長く議友を務め、師とは熟知の仲であったが、大正11年に永眠したことを知り、三四郎の墓前にリティヤを献じる。翌日、女満別のダニイル田中てい子(2歳)に授洗し、同夜、田中兄宅に宿泊する。師は兄とは面識がなかったが、パウエル小川師のこと、また根室教会の議友イオアキム岡伝次郎兄が、明治末期、美幌に未開地を購入し、正教の一大農園を作ろうとしたが志成らず、今は香川県の郷里に引き揚げたこと、また教勢、教事にも話が及び、時の経つのも気づかなかったことであろう。  同年8月20日から30日まで、根室・浜中・標津・武佐を巡回する。根室ではロギン狩野兄、久下姉と山内兄の妻女らの出迎えを受ける。同夜、晩課を献じ、説教後、諸兄姉の痛悔を受ける。狩野兄宅に宿泊する。
 21日、上痛悔者に領聖、後に教談。諸兄姉の散会後、各家庭訪問の予定であったが、強風激しく、止むを得ず外出を中止し、狩野兄と諸事を談じたとある。明治31年、ニコライ主教御巡回の後、座下の御下賜金で会堂を修理し、和田顕栄教会としてイグナティ神父が成聖した教会も今は無く、信徒は散逸して根室教会に吸収され、その根室教会も現在は近郊合わせて信徒17戸、36名と寥々たる有様で、わずかにロギン狩野兄が根室の教勢を支えていた。
 22日、ニキフォル山内峻兄宅で祈祷を献じ、5名の小児に授洗する。イオアン斎藤兄の2人の子息、ニキフォル山内兄の子女3名である。イオアン斎藤兄は、和田でティト小松神父によって受洗したホテン斎藤兄の次男である。ニキフォル山内兄は、イグナティ加藤神父が根室在任中、標津の熱心な新聴者の一人であった和田出身のイオアン山内亀雄兄の長男であり、いずれも親子3代にわたる篤信な家系である。この年12月19日にロギン狩野兄が永眠する。イグナティ師によって発足(はったら・現西浜)墓地に埋葬されたが、師の心中、如何ばかりであったであろうか。
 25日晩、フィリップ工藤兄の馬車で中標津より上武佐教会に着き、26日晩、祈祷説教。28名の痛悔者あり、翌日、痛悔者と小児らに領聖。その日、工藤・池田・矢本兄ら同伴して散在の信徒を訪問。各戸で略祷を献じてその平安を祈った。その晩も諸兄姉の痛悔を受け、28日早朝26名と小児らに領聖を授ける。29日午前9時より6、7名の兄姉らと一里強の共同墓地に行き、標津教会の草創者故フィリップ伊藤兄と総永眠者のためにリティヤを献じている。フィリップ兄は32年前に薫別の山中の孵化場で師自ら授洗した旧知の信徒であり、その墓前に永遠の記憶を献ずる師の心中察するに、今昔転た感無量のことと思う。「ありし日の昔を偲ぶ夜寒かな」の一句を残し、その晩は夜の更けるまで寝付かれなかったとある。  師は永眠するまでの一年半に、大人2人、小児36名に授洗している。

  

第7節 加藤長司祭の永眠

イグナティ加藤師は、昭和9年5月9日に平常と変わりなく、病者領聖のため往復6里の道を徒歩で帰宅したが、夜になって急に発熱、翌10日に釧路市立病院に入院、小腸がんと診断され、6月7日に開腹手術。一時は経過良好で、まだ傷口の手当をしなければならぬ状態であったが(師の入院中、終戦後、教会の再興に尽力された篤信のアナスタシア玉真とま姉の親身も及ばぬ看護に感激されたと、イグナティ師の遺族、現函館教会のワッサ加藤姉の追憶にある)、本人のたっての希望で帰宅した。ついに7月1日午後1時30分、枕元の令閨並びに看護の信徒らと手を握り、従容として永眠された。享年68歳。釧路教会は教会葬をもって故師を送ることに決した。
 4日午前10時入棺式執行。午後7時、猪狩司祭(札幌)は徹夜祷を献じ、東京から駆け付けた鵜澤司祭が8時半よりパニヒダを献祷する。明けて5日午前9時、鵜澤司祭により聖体礼儀奉献。午後11時、鵜澤、猪狩両司祭による埋葬祈禱が開始された。札幌教会からわざわざ来釧された詠隊(横山信子・石井清子・窪田千代子・猪狩文子各姉)は、小樽教会の佐藤先生の指揮で四調音の聖歌を歌う(これはたまたま実姉の玉真とま姉のところへ遊びに来ていた妹のフェオドラ窪田千代子姉が、鵜澤司祭に申し出て詠隊を札幌より呼び寄せたことであり、札幌教会の好意的な友情である)荘厳、哀調に満ちた立派な葬儀であった。霊柩は釧路教会議友トリフォン佐藤、デミトリイ勝永、イサアク田中の三兄、信徒一同、婦人会、露国人イグナティ・ベロノコフ、アレキセイ・ペルシン、イオアン・パンチューヒン諸兄から寄贈の花環で美しく飾られ、管区地方教会からの参列者も加わり、会葬者は約150名であった。その中には天主公教会司祭ラヂスラオ・フレッシュ氏、聖公会の芥川寿哉氏も午前の聖体礼儀から埋葬祈祷まで続いて参列された。祈祷半ばに釧路教会代表者佐藤議友長の弔辞、帯広教会代表者立花議友の弔辞朗読、田中議友より多数弔電の披露があった。
 師の遺骸は略式をもって市設火葬場で午後4時、永遠の記憶三唱の中に荼毘に付された。現在、東京都府中市の多摩霊園に永寝なされている。
 イグナティ加藤長司祭は、千葉県印旛郡本埜村出身で、若くして救世済民の志を抱き、政治家を志し郷里千葉中学に学ぶ。正教に帰依するに至って明治17年に駿河台詠隊学校に入学、伝教学校に転じて明治27年、伝道者として宮崎教会に赴任、熊本人吉教会在職中、明治30年7月の公会で司祭に叙聖され、北海道根室教会に赴任し、爾来、信州、岩手三陸地方、千葉県下、鹿児島、岡山を遍歴。昭和7年12月に府主教の命を受け、5ケ年は働けると喜んで釧路教会に赴任、今日に至った。
 故イグナティ氏は、無欲恬淡、名利を求めず、生活几帳面、また風雅を愛し、句を楽しみ、「天囚」と号した。昭和8年10月14日、斜里教会を巡回した時、次の一句を詠んでいる。
  農村の 力そ強し 稲の波
 この晩、7時に多数の諸兄姉が来会して豊年のモレーベン(感謝祈祷)を献じ、神前に彼らで作った紅白の大餅を供えてその喜びを祝い合った。同村は2年間の凶作で生活に苦しむも、本年は神の恵みによって近年にない大豊作。ようやく愁眉を開いて神に感謝する活気に溢れた信徒の姿、また土に寝付いた信仰の強さを詠んだものと思う。

  

第8節 釧路正教会、札幌正教会の猪狩司祭の臨時管轄となる

 長司祭イグナティ師の永眠で無牧となった釧路教会から、昭和9年の公会に釧路正教会議友トリーフォン佐藤助次郎(ほか2名)、帯広正教会議友アニキタ宗三郎(ほか1名)連名で司祭派遣の請願が出されたが、本会は神品不足のためか、釧路教会を札幌のイアコフ猪狩司祭の臨時管轄とし、標津の伝教者マルク菊池長雄師を起用する体制とした。
 この公会でセルギイ府主教は、「実に憂うべきことは教役者の減少です。昨年、休職したシメオン湯川長司祭は、神様の所に移りました。その北部教会において、後任者として立派に働いた廣岡神父も間もなく1週間たってから葬られ、またこの頃、今一人葬りを済ませましたのは、犠牲を払って遠い釧路に行ったイグナティ加藤神父です。1年のうち3人を失うのは非常に憂うべきことです。神品を見ると頭の白い方が多いので、この次、誰が永遠の記憶を歌われるかわからない(中略)」と嘆いておられる。釧路教会が札幌のイアコフ猪狩司祭の臨時管轄に入ったのは、以上のことからしても止むを得ないものがあったであろう。道東の牧野は広大であり、札幌教会も札幌・小樽を中心に倶知安から北は旭川・稚内・樺太まで管轄している状態で、還暦に近い猪狩司祭にとっては大変なことであったと思う。
 昭和9年10月1日、厚床―中標津間の鉄道開通。同年7月の公会で発表された道東の教勢は次の通りである。

教会 戸数 信者数
釧路 33 143
根室 17 36
斜古丹 19 90
網走 24 115
斜里 19 107
帯広 15 73
標津 35 162
合計 162 726
  

  

第9節 日比司祭の釧路教区巡回

> 1934年(昭和9年)10月、東京神田教会のイオフ日比三平司祭が、本会の命により1ケ月の旅程で道東釧路教区を巡回してくださった。道順は不明であるが、釧路・春採・桂恋・帯広・新得・網走・女満別・野付牛・紋別・滝ノ上・上興部・小清水・斜里・川湯・標茶・武佐・根室と、信者を軒並み訪ね、ともに祈り、教話に務め、多年領聖されなかった信徒に痛悔、領聖をされ、洗礼者も大人2人、小人18名を数えた。
 十勝・釧路・根室・野付牛、至る所に原始的自然そのままの姿態が見られ、その雄大な大自然はどれだけ師を慰めたであろうか。しかし、1ケ月の巡教で多少心休めたのは車中だけであり、おそらく1日も休めない不眠不休の伝道の旅であったようである。それによって、道東の信徒はさらに堅信を誓い、また信仰の灯を再びかき立てられ、まさに干天の慈雨とも言うべき師の伝教であった。
 当時の信者の分布、教勢上からも師の書き残した地名と信者名を再録する。

釧路教会(所在信徒戸主、以下同じ)
 トリーフォン佐藤助次郎 イサアク田中勝治   デミトリイ勝永幸三郎 パエル遠藤清一  ティモン遠藤幸四郎 ニーナ坂本仁那  アガフィヤ嵯峨ミユキ リュボウ西田富子  イリナ曾根伊里那
春 採
 アレクセイ鈴木源太郎 ペトル鈴木勝  グレゴリー鈴木熊太郎 コスマ宮崎忠作  イオアン板垣秋次 ガウリイル藤澤竹太郎  アンドロニク前原禎三 インドル武内好信
桂 恋
 アナニヤ袴塚誠 マルク加藤慶蔵
帯 広
 アニキタ立花宗三郎 パエル中山貞次  アキラ坂本晟 イオアン千葉約翰(末字、車へんにしてください)  ゾシマ和井内教 マリヤ田中時子  アンドレ―斎藤喜之助
新得村上佐幌
 ティト鈴木慶蔵 メホディ佐藤善兵衛
上 興 部
 ステファン小林茂吉 ペトル西村源太郎
紋 別
 ペトル遠藤百次
滝ノ上
 キリール武田良次郎 パエル鳥居欣助
野 付 牛
 ワシリー向井藤太郎 パルメン伏見萬次  ガウリイル高橋俊雄 テモフェイ山内勲  サムイル弘田延繁 マルフェ佐々木タキ
女 満 別
 ダニイル田中千松
網 走
 キリール山内昇 フェオドル荒野静太郎
斜里宇津内教会
 パエル佐藤勘吉 ルカ佐藤勘次郎  フォマ佐藤勘九郎 サワ中島榮之助  サワ佐藤亀吉 イオシフ佐藤勘右衛門  ペトル高橋繁男 イサアク佐藤勘四郎  イアコフ佐藤勘三郎 テモフェイ佐藤善七  ペトル佐藤勘七 キリール佐藤善四郎  マルク佐藤権蔵 イオシフ熊谷巳之助  イオアン中島榮之助 ナウム神成和吉
小 清 水
 ミハイル鈴木繁 ミーナ佐藤巳之助  アガーウ伊藤鶴次郎
川 湯
 ワシリー岩崎厳二 グリゴリー佐々木善三郎
弟子屈標茶
 セラヒム鎌田周藏
標津村武佐会
 ヒリップ工藤熊之助 ペトル吉田廣五郎  ヒリモン伊藤正信 イグナティ矢本昇平  アウエリキー長屋與次郎 フォカ矢本寅吉  フェオファン森谷勇 イオアン渡邉琴治  ポルフィーリ矢本定雄 イオナ高橋福太郎  イアコフ池田清五郎
根 室
 コスマ狩野勉 イオアン斎藤氏  ニキフォル山内峻 イアコフ丹羽岩吉  セリギイ久下時雨郎 サワテイ狩野互松  マリヤ松本ミヱ
以上は、日比神父が訪問あるいは面会した方々である。色丹島の20戸、国後島その他は、日程の都合上、巡回できなかったとある。日比神父は斜里・武佐の信徒に接して感動なされたことを次のように記している。
 「斜里郡宇津内、標津郡武佐など果てしない広漠たる原野にここかしこ、数町あるいは里余を隔てて三々五々、数戸あるいは十数戸の信徒が生活を営んでいる。彼処にいる兄弟らは、近親関係の方も多いように伺いましたが、心よりの同族信愛による一大家族として生活しておられ、適々神父の巡回があると仕事を休み、家族夜具とも荷馬車で教会所に集まり、薪を焚き、南瓜、馬鈴薯を炊き、そこに共同生活が1日2日と続くのです。祈っては話し、語っては祈る。暖炉を囲み、教えを究め、道を説き、神父とともに神を賛美して過ごす。この年は凶作で斜里方面の水田は無作です。垂るる穂に手を触れてみても籾は一粒もなく、田面にそのまま放棄されている有様は痛ましきものでした。しかし、信徒は不平を言わない。神様は必ず見捨てない、あまり豊作が続けば遊惰に流れる。飢え死にはしない、また良き実を賜うであろう。私どもの顔は、あまり南瓜を食べるので黄色い。馬鈴薯のみ今日まで3週間食べたが体力も衰えず、野良の働きに何の支障もなく感謝です。信仰により今日を平安に感謝して過ごし、得らるるのは幸福です。信者であればこそ、この幸いが得られますと話は尽きない。数日の滞在を望まれても日程がなく、2泊くらいで別れを惜しむ。
 武佐教会の教務を終え、多数信徒に見送られ、一里ばかり離れた一信徒の宅に小憩中のことでした。アナスタシヤと呼ぶ老夫人(渡辺ツルキ姉であろう)が、私に会いたいと杖にすがって来られました。この夫人は聴覚長く失われていると聞いていた。また本人も、私は耳が聞こえないと、独り言をつぶやいていた。私はいかにも気の毒でたまらなく思い、彼女の耳近く口寄せて一言試みました。老夫人の面は異常に輝き、神父様の御言葉が一言も漏れなく聞こえたとのことに、周囲の兄弟も驚き、顔を見合わせ、ともに祈祷を献げたところ、祈りの言葉もことごとく聞こえたと老夫人は喜ばれた。聞こえる時が来て自然に聞こえたのか、神父の声を聞こうとする一心で、ただその時だけ聞こえたのか、ただ老夫人に神助多からんことを祈る」。
 また、次のようにも述べている。
 「遠隔不便の地に少数信者の在住は、その平常生活において満たされぬもの、寂しいことが多いはずであるが、それは忍ばなければならぬものとするも、非常の場合、牧者の来駕を求めてもその力なく、また求めても不可能な場合を想像してみてください。黙視できないものがあります。故イグナティ加藤神父は信徒に歓び迎えられ、教区の様子も見直すほどに活況を呈して来た矢先き、今その御逝去後、この広い広い教区は適当な後任者がなく、無牧のまま今日に及んでいます。他派の基督教会は至るところに教会を設け、会堂を作り、ことあるごとに我が正教徒に手を引かんばかりに勧誘に努めています。手にする名簿に正教信者として教えられる人の門辺を過ぎ、案内者からこの家はすでに〇〇〇に転移しましたと聞かされた時、堪えかねぬ思いをしました。
 釧路・帯広に在住する露国人については、彼ら皆正教の堅固な信仰の持ち主で、邦人と親しみ互いに協力しておられることは喜ばしいことだと思われました。」
 昭和10年の公会において、イオフ日比司祭の釧路教区の実状報告にもかかわらず、猪狩司祭の臨時管轄、マルク菊池伝教者の体制は変わらなかった。この年の公会議事録に載った釧路教区の聖洗者数は、釧路・小人4名、根室・小人2名、網走・小人2名、斜里・小人5名、帯広・小人3名、標津・大人1名、小人4名の計21名となっている。これは猪狩神父により1名(釧路で小人1名)、他の20名はイオフ日比神父によるものである。
 ちなみに、この年の日本正教会の教会数は184か所、神品は32人(主教1名、司祭28名、輔祭3名)、伝教者23名、信徒総数4万0178名、信徒の現在数は1万7285名と発表されている。

  

第10節 福井長司祭、釧路教区を臨時管轄する

一 大石伝教者、釧路へ赴任する

  昭和11年7月の公会において、札幌ハリストス正教会より次のような請願が提出される。

 請 願
一 猪狩司祭管区縮小に関する請願
 札幌正教会在住猪狩司祭管轄地域を岩内・室蘭・旭川の範囲(現範囲より釧路・北見方面を除く)内に縮小せんことを期す。右決議す。
 理由は言うまでもなく、「現札幌の猪狩司祭は、函館付近を除いた北海道全部、樺太まで管轄しており、この広大極まる管区において積極的な伝道効果を期待するのは本道の地理的な実状に暗い暴挙である。」とまで言い切って、間接的に釧路教区の再現に触れている。
 この公会で札幌教区の縮小は承認されたが、神品の都合がつかず、釧路教区は休職長司祭福井師の臨時管轄となり、元伝教者ペトル大石吉之助師が復職して釧路へ赴任する。この公会決議で府主教は「福井神父は釧路教会に23年間も伝道牧会したことがあります。気候の良い時期に一度巡回していただければ信徒も喜ぶことでしょう」。これに対して福井神父は「私は釧路教会を長年管轄しておりましたから、忘れず記憶しております。私は老衰して身体が意のままになりませんから、とても釧路教会で、例えば死者がありますとか、その他の出張は見込みがございません。このような事情の者の管轄は無意味でありますが、文字通りの臨時管轄ならばもう一度巡回してみたいと思います。この夏から秋にかけて、行かれる所まで行きたいと思っております。大石兄は誠に適任と思います。釧路の兄弟からも喜んで迎える返事が来ております。」と答えている。福井長司祭は78歳の老齢であり、メトリカにも、古老の記憶にも師の来釧はなかったようである。
 福井長司祭の臨時管轄区域は、釧路教区の旧管轄に、旭川・砂川・奈井江・増毛・稚内まで加わり広大な地域である。
 ペトル大石伝教者は、昭和11年7月に釧路に着任して以来、その広漠たる教区内を東奔西走して兄弟姉妹を巡回、祈祷、説教して彼らを慰めている。10月には色丹島に渡り、久しく牧者を失い、信仰に飢え渇いた信徒を鼓舞し、また烈風強雨を冒して山越え、太平洋岸のチボイ・トイロ・イネモシリの部落まで入っている。その間、軒ごとに信徒を訪ね、ともに祈り彼らを慰め、訓戒して色丹島に11日間も滞在している。伝教者としても色丹島に渡ったのは、ペトル大石伝教者が最後の人であろう。
 大石伝教者の賢明な伝道活動によって、一般信徒の信仰が燃え立つとともに、神父の巡回を望む声が強く、ことに釧路の露人側より府主教座下に司祭巡回の熱烈な請願が出され、ここに静岡教会のサワティ大川司祭の1ケ月余の臨時巡回が実現する。

二 大川司祭の釧路教区巡回

 静岡教会の司祭サワティ大川佐和俤師は、昭和12年3月17日、静岡出発、東京で府主教座下の祝福を受け、3月20日午前10時頃釧路へ到着している。何しろ内地でも温暖な静岡からいきなり道東の釧路へ来られ、その寒気に先ず一驚なさったことであろう。
 師は旅装を解く間もなく、同夜スボタ祈祷、説教、痛悔まで聴かれ、翌主日には大ワシリイ聖体礼儀執行、領聖者13名、翌日も略式で聖体受領者7名。午後市内信徒の家庭訪問も始められた。教区の巡回に先立ち、大石伝教者の協力によって巡回日程を計画し、あらかじめ各方面に通知し、3月24日より道東根室方面から約1ケ月間の巡回が始まる。
 巡回地と日程は明確ではないが、大石伝教者とともに24日、厚岸の太田村にイサアク田中兄を訪ね、27日に根室、29日は武佐教会を訪ねている。30日にここで小児7人に授洗、4月3日帰釧。7日から標茶・川湯、9日には斜里教会を訪れて小児7人に授洗、12日は小清水・網走・女満別、13日には野付牛若松にワシリイ向井藤太郎兄を訪ね、その後、紋別・滝ノ上・湧別・興部・生田原(旅程の推定)に向かい、再び野付牛を経由して止若(幕別)、帯広にアニキタ立花秀宗三郎兄らを、19日には新得上佐幌にメホディ佐藤、アキラ鈴木兄らを訪ねている。
 4月23日、着京して府主教に復命するまでの1ケ月間、大石伝教者と行をともにし、あるいは単独で信徒を戸別訪問しての感謝祈祷、婦人会及び各種の会合における説教等連日の巡教によって、道東の信徒のうち158名も領聖を受け、小児授洗も35名に達している。先にイオフ日比神父に領聖を授けて以来、3年ぶりのことで、ここに2代、3代にわたる信徒が再び誕生し、道東の正教徒は神の恩寵を身近に感じ、信仰への飢餓を幾分なりとも癒されたことであろう。
 道東、ことに内陸部は3月末といっても残雪があり、ドカ雪に見舞われることもしばしばである。サワティ師も風雪を冒して馬橇に乗っては時々転覆に遭い、また天候に妨げられて予定を変更することも再三あったと述懐している。
 昭和12年の公会議事録には、釧路教区の洗礼者数は記載されておらず、また昭和11年9月21日に釧路のイオアン・パンチューヒンの次男が永眠して札幌から猪狩司祭が激務の中、駆け付けて葬儀を執行したにもかかわらず、永眠者も報告されていない。教会あっても神父のいない悲哀ともいうべきであろうか。
 この年の7月、盧溝橋事件に端を発し、日支全面戦争へと拡大し、日本ハリストス正教会としてもその渦中に巻き込まれ、長い長い苦難の道を歩むことになるが、時勢の然らしむるところであろう。
 すなわち、昭和12年の公会2日目の14日、中川副議長より、文部次官名による今回の北支事変に関して、府主教宛ての公書の発表朗読があった。それによると、「今次北支事変ニ関シ政府ヨリ別紙ノ通リ声明有之タルニ付テハ此ノ際貴教派教師ヲシテ宜シク信徒ヲ教導シ正シク時局ヲ認識セシムルニ努メ以テ国民タルノ本文ヲ守ラシムルト共ニ協力一致マスマス国民精神ノ振作ニ遺憾ナキヲ期セラレ度」とある。府主教はこの公書を印刷して全国教会に配布するよう指示をなさっている。
 戦争の拡大は当然ながら我が正教徒の出征にもつながり、府主教セルギイ座下より次の公書が全教会に配布された。「忠勇なる出征信徒に與う」と、日露戦争時にニコライ大主教から全信徒に宛てた「第一公書」である。さらに12月には「戦時祈祷式」が発表された。我が正教徒としても、この戦争を聖戦と信じ、皇軍将兵の武運長久を祈り、戦勝を祈願することは当時の国民として当然のことであったであろう。
  


第11節 小野司祭、釧路へ赴任する

 1938(昭和13)年7月の公会で、釧路正教会、色丹正教会、武佐正教会より次のような司祭派遣の請願が出される。当時の道東信徒の心情を知る上でもここに再掲する。
請願書
 当東北北海道各教会ノ為メ釧路正教会ニ司祭一名常置相成度此段及請願候也
 追テ説明ハ代表者ヨリ口述仕候
     釧路正教会議友代表
      前原 禎三       鎌田 周藏       佐藤助三郎
代表者として大石伝教者が出席している。
 また色丹正教会信徒一同として議友コノン大橋米吉、イオアン友野幸雄、マカリイ田中忠太郎の諸兄より次の請願書が出される。
 謹テ陳情請願仕候
当教会ハイグナティ加藤神父御昇天以来数年神父ノ御巡回無ク爾来信者ハ領聖神恩ニ洩レ且信者ノ家庭ノ出生子又ハ新タニ入信希望者モ洗礼ノ恩寵ヲ領クル能ハズ此ノ国家非常時ニ方リ我等ノ教会ハ信仰上ノ恐慌ニ直面致居候伏テ願フ閣下事態御賢察ノ上是非本年ハ北海道東部教会ノ司祭御差遣相成度此段陳情請願仕候
 武佐正教会からも議友ヒリップ工藤熊之助、フェオファン森谷勇、アウエリキイ長屋與次平兄らによって、「吾等僻地の東北北海道散在の信徒は、司祭の常任なく常に司祭に祝福、領聖、守護の機会を得ず、ただに狼群の包囲のままかすかに生命の息の根絶へぬに過ぎざる状態に候(中略)。希くば今期公会において哀れ弱信羊群を救わんために常任司祭を選立あらんことを当会一致の上渇望候特別の御詮議奉願上候。」と、信徒らの苦衷を吐露して司祭の派遣を願っている。
 この公会で盛岡のグレゴリイ小野警輔祭がセルギイ府主教によって司祭に叙聖され、9月に釧路教会へ赴任する。ペトル大石伝教者は一の関教会へ転任となる。管轄は、釧路・帯広・斜里・根室・武佐・北見地区・色丹に樺太・岩内・昆布が加わり、14年の公会で樺太は札幌教会の管轄と変わるが、14、15年度公会の景況表には、樺太の教勢のみ報告され、洗礼者、永眠者とも皆無となっており、管轄は名のみであったようである。
 この年10月、高崎教会のイオアン小野長司祭(後の主教ニコライ、グレゴリイ神父の尊父)が本会の命により道東を巡回、武佐で幼児2名に授洗(10月23日)、釧路で1名に傳膏機密(11月5日)を執行している。短期間の巡回であったと思うが、特に斜里・武佐の土に根ざした信仰に御満足なされ、この後、マルク下斗米昌教伝教者の道東派遣に結びついたのではなかろうか。この時のほほえましいエピソードを紹介したい。
 現釧路正教会のフェオドラ藤田姉は、ワシリイ岩崎厳二兄、アガヒヤゆき姉の三女として弟子屈村川湯に生まれ、当時数え年4歳の幼児であった。たまたま長司祭が岩崎家にお泊りになった時のことである。岩崎家では家族が多く長司祭に一間を提供することもできず、父と長司祭、家族一同は雑魚寝の状態であったようである。澄子姉は姉たちと寝ていたが、夜中目を覚まし、父母の膚が恋しくなったのか、間違って長司祭のお休みになっている布団の中に潜り込み、驚かれた神父は「ヨシヨシよい子だ」と、おっしゃって頭をなでてくださった。その後、澄子姉は父母に「お前は小野主教様のお休みになっている布団に潜り込んで、主教様にかわいがってもらったんだよ」と、よく言われたそうである。
 グレゴリイ小野警神父は31歳の少壮有為の神父で、釧路・武佐・斜里の古老の信徒の記憶に、お若い物静かな方であったとある。ただ、在釧3年間の主日の参祷日には、露人のベロノコフ、ペルシン、パンチューヒン、ユーシコフの諸兄、家族らが集まり、日本人の信徒はめったに顔を出したことがなく、復活・降誕の大祭にもこれら露人家族で占められていたようである。
 時代は戦時色に塗りつぶされ、昭和13年4月1日に『国家総動員法』が成立し、『重要産業統制法』が実施される。昭和14年にはノモンハン事変が起こり、この年9月にドイツ軍がポーランドへ進撃し、第二次世界大戦が始まる。15年には日独伊三国同盟が締結され、やがて日本は世界相手の太平洋戦争へと突入することになる。戦争が拡大し長期化すると、その影響は直接国民生活に及ぶようになり、あらゆる物資を軍需産業に集中するために国家による直接の経済統制が避けられず、『米穀配給統制令』『生活必需品の切符制』が実施される。また戦争遂行のための労働力として動員する『国民徴用令』が14年7月から施行された。これは本人の意志如何にかかわらず権力によって強制的に動員される点は、軍隊への召集令状と同じであった。さらにこの年、『宗教団体法』が成立し、15年には大政翼賛会(釧路では昭和16年2月に大政翼賛会支部が発足する)、国民精神動員組織が結成され、思想の取り締まりと国民に対する教化対策が一層厳しくなっていく。
 国民服が制定されたのもこの年である。さらに隣組制度が実施され、出征兵士の歓送迎、慰問袋や国債の割り当て、生活必需物資の配給など、戦争への国民動員をはかる末端組織として連帯責任と相互監視の役割を果たした。
 釧路教会の参祷不振は、当時の社会情勢、軍靴の高鳴りが無言の圧迫となったのであろう。教会の古老も、当時は教会へ参祷できなかったと言葉少なに語っている。メトリカを見ても師の在釧中、釧路教会では露人の幼児2名、司祭の子息1名、他1名の計4名の授洗(傳膏機密を除く)が記録されているのみである。
 農村も例外でなく、戦場に兵士を送る最大の供給源であり、しかも農村には食糧増産が戦争下至上の課題として要求され、農民の苦労も大きかった。武佐・斜里の信徒らは、グレゴリイ小野神父がお出でになると仕事を休み、馬車あるいは徒歩で教会に集まり、神父の降福を歓び、痛悔、領聖とともに神の恩寵に感謝し合っていたようである。
 神父は西は帯広・新得、北は川湯・斜里・小清水・網走・女満別・北見、東は厚岸・武佐・根室と積極的な巡教を重ね、特に色丹島には在職中2度も渡島し、島民の信仰への飢餓を癒している。管轄司祭として色丹へ渡島し、彼らを神恩に浴させたのは、グレゴリイ小野警司祭が最後の人である。
 故グレゴリイ師の婦人ワルワラ姉(現在東京在住)は、釧路ではトリーフォン佐藤夫妻、デミトリイ勝永親子、アナスタシヤ玉真、ニーナ坂本、オリガ三井田、リュボウ西田、アンドロニク前原、ベロノコフ、パンチューヒン、ペルシン、シェシミンチェフ、ボルガの諸兄姉、標茶・セラヒム鎌田、武佐・アウエリキイ長屋、イヤコフ池田、ポルフィーリイ矢本、厚岸・イサアク田中、根室・エウフィミイ狩野、帯広・アニキタ立花、色丹ではコノン大橋、ソフロニイ寿山仁作の諸兄らを、今なお記憶されている。
 金銭的なことに触れてみると、釧路教会は昭和11年の公会までは独立維持基金をまがりなりにも本会に拠出している。この公会の発表によると、釧路教会は21円(札幌教会は2円であるが、昭和14年の公会では釧路教会は無く、札幌教会・20円、帯広教会・12円となっている)で他の教会に遜色のない額ではあるが、しかし、その後は滞りがちとなる。
 昭和14年の公会議事録を見ると、神父への供給金は釧路教会・250円、色丹教会より50円で計300円である。供給外金はゼロである。昭和11年の師範学校卒業小学校教員の初任給は55円で、その上に手当が付く。また同年、札幌・函館等の学生の下宿代は16円前後であった。小野神父への供給金は月にすると25円であり、これでは人並の生活はできない。旅費はどうしたのであろうか。本会への独立維持金がそれらに振り当てられたのでろうか。とにかく神父、信徒にとって受難の時代であった。時代の波に順応せざるを得ない環境にありながらも、道東の正教を守り続けたことに対して敬意を表するものである。
 師は戦前最後の16年の公会に出席して、その秋、東北の金成教会へ転勤、戦後一時、野に下ったが、その後、本会ニコライ堂に司祭として務め、43年にウラジミル主教により長司祭に昇叙され、鹿児島教会を最後に昭和57年3月、東京田無市の自宅において御永眠。享年74歳。現在、東京復活大聖堂内の納骨堂で安らかな眠りにつかれている。
 グレゴリイ小野師は、明治40年12月10日、小野帰一師(後の主教ニコライ)、小野シン姉(後の修道女エレナ)の愛児として、北海道函館の恵比須町に生まれ、正教神学校へ入学したが、ロシア革命のため閉鎖されたので、委託生として立教大学宗教学科に学ばれた。正教の発祥地・函館でお生まれになった生粋の道産子であり、親しみと敬愛をこめて師に永遠の記憶を捧げるものである。
 昭和15年7月公会における釧路管轄区の教勢は次の通りである。

教会 戸数 信者数
釧路 36 153
標津・武佐 14 84
斜里 9 59
色丹 25 86
岩内等 42 170
合計 126 552

  

第12節 戦時下の正教会

一 小野長司祭の主教叙聖

 この時期、ハリストス正教会は他のキリスト教同様、すでに大勢として国家体制への順応を余儀なくされており、昭和10年より11年までの『正教時報』、『公会議録』を見ても(その後についても紙面は戦時色に満ちている)、文部次官、文部省宗務局長名で種々な通牒が出され、正教会としてもこれに応え、公会開催時に主教座下の開会祈禱後、宮城遙拝、国家斉唱に始まり、また出征信徒の戦病者、戦没者の遺家族に公会決議で慰問状を送り、中支・南支・北支・上海・支那方面軍各司令官に感謝状並に慰問状を謹呈している。
 昭和15年度の公会には「邦人主教選立」「宗教団体法に因る教団規則制定に関する件」等の重要問題に関連する事項があり、病気その他止むを得ない数名を除いて全国より教役者が集まった。『宗教団体法』により日本正教会は一つの教団として認められ、新たに「日本ハリストス正教会教団」を設立するに至ったが、教団統理者は日本人でなければ文部省の許可がおりないということになり、この公会席上、邦人主教候補者として岩澤丙吉、小寺徳の両師が候補に上がったが両師とも固辞された。公会第三日目に次のような緊急動議が一部有志によって提出された。
 「日本正教会は、我が国情と相容れざるモスクワ教権と一切関係なきものなることをここに声明する。」以上の動議について、紆余曲折はあったが、結果としては満場一致で可決された。翻って、昭和5年の公会において上の如き決議が信徒の総意としてセルギイ大主教に提出されている。その内容は今回の声明と酷似している。
一 日本正教会は在日本露国ミッションとは何等の関係なきこと
二 日本正教会はソビエトの管下に属せざること
 これについてはセルギイ大主教は長時間にわたって、日本正教会はモスクワ正教会と関係ある旨を強調して譲らなかった。その時、福井司祭が府主教に対して発言した内容を挙げてみよう。
 「大主教の聖職を尊ぶ心は全教会が持っております。ところが困ったことに、先年、日露戦争があった時、教役者は大変迷惑しました。それは別に教義に何の問題もなく、ただロシアの教会と言うために沢山の信者が離れました。(中略)しかるに今度の問題はそれより大きなことで、ソビエト主義と我が皇室中心主義とは全く正反対であります。従ってロシアと関係を持つということで、どんなことが将来起こらぬとも限りません。」さらに、大主教の御返答に対して、「日本正教のためなお一言願います。どうかあちらとの交際はできるだけ避けていただきたい。」と発言している。
 昭和5年当時の日本正教会は、ロシア革命、日本正教会の自主独立、大震災によるニコライ大聖堂の破損、大聖堂の復興成聖と、大きな試練を乗り越えて自信を取り戻し、教勢の発展を迎えようとしている時期に、日本正教会の統理者であるセルギイ大主教が、共産主義政権下にあるモスクワ教権と関係あることは好ましくなかったのであろう。日露戦争勃発時に、函館要塞司令官を相手に豪も屈しなかった福井司祭の以上の発言は、正に当時の国内事情を把握しているといえよう。セルギイ大主教は、公会最終日の会議終了の直前に次のような声明を出してこれに応えておられる。一項は省略する。
 「日本正教会は在ソビエト連邦旧正教会の肢体にして教義以外何等の関係を有せざるがゆえに、自今日本ハリストス正教会の法律上の自治を計るべし。」
 しかし、セルギイ師は最後までロシア正教会(モスクワ教権と)との関係を持ち続けた。昭和5年の国内事情と昭和15年のそれとは、前述したようにあまりにも差異があり過ぎる。今回提出された緊急動議は『宗教団体法』によるとしても、セルギイ府主教の日本正教会統理者の終焉を意味するものであろう。
 その後、『宗教団体法』に準じ、8月28日の邦人主教選立委員会において、日本正教会教団統理者に神学士岩澤丙吉氏(陸軍大学露語教官)を満場一致で推戴し、氏も承諾された。9月4日、邦人主教選立委員と府主教セルギイ師との懇談のおり、主教座下は現下国内事情に即応され、日本正教会のために円満引退される旨を発表、翌5日に正教会代表としての一切の権限を新統理者岩澤丙吉師に委譲なされた。先に岩澤氏が正教統理者に推戴された時以来、日本正教会は岩澤派、反岩澤派と分かれて紛糾し、ここに至って反岩澤派は、「岩澤代表とその一派(主教選立委員会委員の一部)は、脅迫と強制とをもって教会の代表権と統理権をセルギイ府主教から収奪した」と主張するなど、派閥抗争が激化し、教会の内部は混乱の渦中にあった。しかし、このような中でも教会は一日も主教なくしてはいられない。「主教なき所に教会なく、教会なき所に救いはなし」とあるように、このままでは日本正教会は自滅の道をたどるほかなかった。
『札幌正教会百年史』に全く思いがけない解決の方途によって邦人主教が実現したと記されているように、イオアン小野帰一長司祭が、昭和16年4月6日、ハルビンの中央大聖堂で府主教メレティ、大主教ネストル、北京の大主教ビクトル、主教ユヴェナリイ、主教デミトリイによって主教に叙聖された。このことについて『正教時報』には次のように記されている。
「福いなる哉、天来の福音と言うか、ユーゴスラヴィア国(在住)のアナスタシイ師(師は岩澤氏と同一神科大学出身で、ロシア正教会・在外シノドの代表である)より、ことさら新体制の岩澤統理宛てに、日本主教を叙聖すべし、然して叙聖式のことはハルビンのメレティ府主教(アナスタシイ師と関係あるハルビン教区の代表)をしてその労を取らすべく交渉したからとの、至れり尽くせりの慶報の入電が到来した。」
ニコライ小野主教の叙聖も紛争の大きな火種となった。遡って1月11日、駿河台で神品、信徒によって臨時公会が開かれ、統理になる者が聖職者でない岩澤氏に代わって正式な邦人主教を新たに選立することとなり、大阪正教会の長司祭藤平新太郎を主教代理(統理)として選んだ。これについて『正教時報』には、「公会は主教の招集するものであり、この時はセルギイ師は円満引退しており、岩澤氏が正教会の代表する統理者である。臨時公会は統理者の招集によらなければならない」と、臨時公会を否定している。かくして小野派と藤平派の二派が相争い、地方教会の混乱を招き、世情の顰蹙を買い、日本正教会の低迷が続く。
『正教時報』の記事は、時の統理者側として記述されるものであるが、軍政下同様の当時の状況からして、岩澤統理、小野主教の叙聖は、時には拙速をいとわぬ手段と言えるものであろう。  昭和16年7月18日の東京大会において、教役者38名、信徒側18名出席し、臨時公会が開催され、小野師が主教に推戴された。この公会で長司祭藤平新太郎の主教実現が決議されたが、アナスタシイ師の在住するユーゴスラヴィアは戦乱の渦中にあり、日本正教会はハルビンの府主教メレティ師と連絡を取り(主教を叙聖するには2人以上の主教が立ち会わなければならない。それには当時満洲帝国治下<関東軍配備>のハルビンが最適地であった)、藤平師の叙聖が可能かと思われたが、主教実現はできなかった。軍政下同様の当時の情勢、加えて時期を失していたのであろう。12月8日、日本軍マレーに上陸、ハワイ真珠湾を空襲し、日本は太平洋戦争に突入する。

二 マルク下斗米昌教伝教者とマルク菊池長雄自給司祭

 グレゴリイ小野司祭は、昭和16年秋頃釧路を去り、釧路教会は再び無牧となるが、釧路の信徒がニコライ小野主教座下に請願したのでなかろうか。16年の晩秋、伊豆の修善寺教会からマルク下斗米伝教者(昭和14年の公会で修善寺教会に配置された)が来釧している。現釧路教会のパンテレイモン三井田兄が、着流しでお歩きになっている当時の師を、さらに兄が昭和16年末、招集で出征の際に駅まで送ってくださった師を記憶している。昭和17年4月号の『正教時報』には、誌代領収(3月分)として師の氏名が載っている。
 メトリカを見ると、昭和17年10月、ニコライ小野主教が来釧され、信徒に洗礼を執行なされた時に下斗米師も立ち合い、また代父を務めている。さらにこの年に釧路で死者の埋葬もなさっている。昭和18年4月号の『正教時報』には、「下斗米昌教様本会に来訪されていたが、2月21日主日、説教され午後釧路教会に向かって帰会なさる」とあり、釧路・帯広・武佐の古老の信徒に今もって師の記憶が残っている。
昭和16年7月以降終戦まで公会が開かれていないので、師の配置命令、管轄区域、教勢等判然としないが、師は昭和18年末か19年には釧路を去り、故郷の三戸か東京の本会に居られたのでなかろうか。
 昭和17年9月10日、小野主教座下には北海道教区巡回のため、東京出発、北海道、千島御巡回中のところ、約2ケ月振りで11月3日午前5時頃無事帰京と、『正教時報』に載っている。座下には、道東にお入りになって、帯広・池田・野付牛・網走・斜里・武佐・釧路・根室・色丹と御巡回なさったのでなかろうか。釧路管内は下斗米師、マルク菊池伝教者が随伴なさったことと思うが、残念ながら記憶が定かでない。ただ、釧路教会のメトリカには、この年10月11日に、鈴木エミ子、愛子、輝雄、武内ミキの幼児4名が座下によって受洗されている。
 昭和17年12月の『正教時報』によると、座下帰京の翌4日午後7時より本会において第二回例会が開かれ、主教座下、神品理事3名、信徒理事4名で、以下の如く協議している。「根室方面は、目下司祭が無く、牧会上支障があるため、元伝教者菊池長雄氏を自給司祭として選立する旨、主教座下より発議あり、この件について全国の司祭に照会する」とある。  菊池神父の次男修行兄の記憶によると、「父が本会からの通知で10日くらい上京したことを覚えている」とあり、『正教時報』にも「菊池神父様、昭和18年2月8日任地釧路教会に向かって帰会なさる」とあるので、この時、マルク菊池師が主教座下によって司祭に叙聖されたのであろう。
 『釧路ハリストス正教会略史』によると、司祭グリゴリイ師無き後、釧路教区は札幌教区の司祭イアコフ猪狩師の臨時管轄となり、再び常任の司祭はなく、ここに釧路教会は戦後、出原神父の来釧まで一大空白期間となるとあるが、マルク下斗米伝教者、マルク菊池司祭は、その一大空白期間を埋める釧路教会史のひとこまとして忘れ得ざる先達であろう。
 マルク菊池師は、ニコライ小野主教によって叙聖され、戦時中、教会の衰退著しい時に道東の牧野に立ったことは不運の司祭と言うべきであろう。しかし、師によって2代3代と信仰を維持できた人々も少なくなく、師に永遠の記憶を捧げている。師は終戦直前、故郷岩手県江刺市米里人首町に引き揚げられたと思われる。昭和21年4月21日御永眠。人首の墓地に永寝なさっている。

三 釧路聖教会牧師、長塚徳四郎スパイ容疑で検挙される

  表題の項目は、『新釧路市史年表』に《釧路ハリストス教会牧師、長塚徳四郎スパイ容疑で検挙される》として載っているものである。調査したところによると、旧ホーリネス教が分裂して出来た釧路聖教会の長塚牧師が昭和17年6月26日(年表では昭和18年となっている)、釧路において検挙されている。師は翌年2月には札幌に移され、懲役1年半執行猶予4年の刑を受けている。
 年表をみると、昭和15年、釧路基督連盟が発足する。加盟教会は聖公会、日本基督教会、聖教会、きよめ会、救世軍、メソヂスト教会の新教関係の教会であり、ハリストス正教会は中央では一つの教団として認められ、釧路でも単一教会として成立していたが、連盟には加入していなかった。グリゴリイ小野神父の頃である。
 表題については、その背景を説明しなければならない。前記したように、昭和14年に『宗教団体法』が発布され、政府が教派や教会解散等の権限を握り、宗教行政面でもこれによって国家統制が完備されたのである。次いで日米開戦を目前にした時期に『治安維持法』が全文を改め、新たに65ケ条に及ぶ『新治安維持法』に衣替えして、昭和16年5月に施行された。新法には予防拘束制度を取り入れた人権抑圧の条項が盛られていた。
 新設された第7条を見ると、国体を積極的に変革しなくても、これを消極的に否定することだけを目的とすれば、その指導者や団体員を処罰できるようにしている。さらに「神宮若ハ皇室ノ尊厳」と言う国家神道の中核的地位にある部分を保護主体として明文化し、神権天皇制、国家神道体制に少しでも添わないと宗教や思想を弾圧する、その目的が露骨である。表題の長塚牧師の検挙は治安維持法の疑いである。表題の件について以上の事実を述べ、釧路市史編纂委員会に今後の訂正を求めた。  しかし、表題の「スパイ容疑で検挙される」は、我が正教会にとって無縁の出来事ではなかった。この同じ年、『治安維持法』による忌まわしい投網が、我が正教会の篤信な白系露人らに投げかけられた。以下、現サンフランシスコ在住のジョージ・ベロノコフ氏が、釧路教会に送ったファックスを主体に、また現信徒のマトロナ山本姉の追憶及びメトリカを通して、当時の状況を簡単に述べる。氏名の敬称は省略する。
 すなわち、昭和17年12月、ワシリイ・ユーシコフ、イオアン・パンチューヒン、ミハイル・ハンジン(帯広在住で教会の集まりがあるといつも美味しいパンを持ってきてくださった。この時、義父の宗三郎が何回も警察に釈明に行かれたと、現帯広在住のリュボウ立花姉が追憶している)の諸氏が特高の刑事によって検挙された。何の罪もない、ただ外人と言うだけで、本人はもちろん、彼らの夫人たちも拘引される理由が分からなかった。パンチューヒンは当時、北大通り5丁目に大きな洋服店を構え、商店街の信用も厚く、また露人たちのボスでもあったようである。ユーシコフは露人の中では一番若く、札幌の刑務所に移され、昭和20年5月まで拘留されている。釈放後、夫人ともども神戸に移られた。ハンジンは、時期は不明であるが、獄中死している。釧路の紫雲台墓地にパンチューヒンの愛子ユーリィ(昭和2年永眠)、アレクセイ(昭和11年永眠)の墓が建っている。墓碑は昭和18年に建てられているので、パンチューヒンは釈放後、横浜に引き揚げられたようである。
 翌18年1月8日、クリスマスの翌日にイグナティ・ベロノコフ(ジョージの父君)、アレキセイ・ペルシンの両兄が特高によって検挙された。幸いペルシンは3月に釈放されたが、ベロノコフは6月まで拘留された。ペルシン夫妻は終戦直前まで釧路に居り、その後、内地を経てアメリカに渡り、その地で永眠。墓はサンフランシスコにある。ベロノコフは、翌年1月21日、心臓病で不帰の客となった。墓は紫雲台のパンチューヒン家の墓と並んで建っている。ベロノコフも北大通り7丁目で洋品店を営んでいた。夫人のオリガ姉はその後、永く釧路に住み、熱心な信徒であり、昭和33年10月横浜へ、その後、息子たちの住むサンフランシスコに渡り、その地で昭和62年8月に永眠している。
 マトロナ姉によると、戦後、オリガ姉に会う毎に夫ベロノコフの死に触れ、「警察がうらめしい」と何度も涙ぐまれたとある。1月と言えば厳寒の季節である。火の気のない監房で寒さに苦しみ、ノミやシラミで眠ることもできず、また拷問もあったであろう。ふだん心臓が悪かったようで、釈放された時は衰弱しきっており、その後、身体の不調が続いたようである。夫人が「警察に殺された」と嘆くのも無理からぬことであろう。
 白系露人が釧路に住み着いたのは東京大震災以後であり、大正14年にセルギイ大主教が釧路へ巡回なされた時、ワシリイ・ドウドロフ兄が駅に大主教を迎えている。その後、パンチューヒン、ペルシン、ベロノコフ、ユーシコフ、シェシミンチェフ、ボルガ、ハンジン(氏はその後帯広に移る)等が来釧している。現在の教会は昭和7年に建立されたが、これは彼ら白系露人の援助無しでは実現できなかったことである。彼らは篤信な信徒として、昭和初期より釧路正教会を支えて来た忘れ得ぬ人たちである。今、ワシリイ・ユーシコフ兄は、サンフランシスコで高齢ながらも元気でお暮しのようである。
 『北海道キリスト教史』に、昭和18年5月に釧路教会(旧日基)所属の陸軍大尉が戦死し、教会で葬儀が行われ、その時の伊藤淳一牧師の説教に触れて、ここに出席した釧路軍友会長が問題視して所轄署視察員に知らせた手紙の文が載っている。
 「前略…釧路教会の牧師伊藤淳一が説教を始めたが、その説教中『遺族の方も基督教信者であり、戦死者も信者であったのですから、必ずキリスト様の許に行ったに違いない』云々と述べ、天皇陛下の御為、または国民のために戦死したとは言わず、さらに靖国神社に神と祀られるものだとは一言も言わず、全くアメリカにおける通夜の如く感ぜられてならず、日本帝国の為、畏くも天皇陛下の為、戦死したという態度は一つも見受けられなかった。いくら贔屓目に見ても親英米的で末恐ろしいものがあると思う。彼らの間には反戦的思想が漲っているように窺われる。米英とは今食うか食われるかの戦争をしている。この時、このような宗教を公認していることは矛盾していると思う」とある。当時、釧路病院が焼けたので公会堂(公民館)が臨時の病院に使われ、戦死者の市葬は禅寺の定光寺が会場として用いられていたが、前記の葬儀とは、市葬に繋がる前晩祷(通夜)のことであろう。
 当時人口5万余の地方での長塚牧師、我が正教会の白系露人ら一連の出来事は事の真相はともかく、「スパイ容疑者検挙」の重大ニュースとして市民を驚かしたことであろう。また、一般人、キリスト教徒の市合同葬にさえ特高やその他の目が光っていたことは、当時の思想抑圧の根深さを思い知らされる。なお、『北海道キリスト教史』には、戦争中、日本基督教団に所属した教派で最も苛烈な弾圧を受けたのは、救世軍とホーリネス教会であると記されている。
 この時期、不幸にも兄を戦争で亡くされた現釧路教会のマトロナ山本照子姉の追憶を述べてみたい。
 当時、武佐にいたポルフィーリイ矢本定雄兄の長男コノン正雄兄が昭和18年1月、海軍に入隊し、不幸なことに横須賀で3月に病死した。遺骨が武佐に届き、村長は村葬をもって葬儀を執行する旨、矢本兄に伝えたが、兄は「息子は戦地にも行かないで病死し、国への御奉公もできなかった」と固辞された。結局、銃後後援会葬として他の戦死者と武佐小学校グラウンドで合同村葬を執行した。この時、釧路教会のマルク下斗米先生が羽織袴に祭服をまとい、祈祷、詠隊も一人で務められ、マトロナ姉は感涙したと告白している。当時、マルク菊池司祭は標津に居られ、歳還暦半ばを越え、復活祭、降誕祭、信徒の洗礼機密のほかは、諸事を下斗米伝教者にお任せになっていたようである。
 また、昭和18年に斜里のイオシフ佐藤勘右衛門兄の子息が戦死して、遺骨が届いた時、教会が狭いので自宅でマルク菊池神父の司祷で、キリイル佐藤兄始め同信の方々、村の有志が集まり盛大な町葬が行われた。役場でも供物を持参して参加したようであったとは、現斜里教会セルギイ養作兄の遠い追憶である。なお、イオシフ佐藤兄は、18年10月の靖国神社の秋季大祭に遺族として参列し、帰路本会に立ち寄っている。わずか2つの例に過ぎないが、釧路の件とは対照的であると思う。
 戦局が悪化し敗戦へと後退した時期、特高や憲兵は無差別と思えるほどの検挙を始めた。府主教セルギイ師は、昭和20年4月12日に憲兵に拘引された。以来40日間も憲兵隊本部に拘留され、5月下旬、憔悴して瀕死の状態で釈放されたが、東京板橋区大谷口の狭い焼け残りの家で終戦5日前の昭和20年8月10日、身辺の世話をしていた日本婦人に見守られて殉教致命者的な眠りに就かれた。
 この頃であろうか、現札幌在住のイサアク勝水兄(故デミトリイ幸三郎兄の長男)が父より聞かされたと、次のように語っている。
 「突然、憲兵が教会に来て聖堂の十字架を切り落とし、また教会の聖器物も持ち去ろうとしたが、父は必死の思いで教会の戦時祈祷書を見せ、教会は天皇の為に祈り、また信徒も勇躍出征して国家の為に戦っていると語を強め、あるいは哀願して聖器物の持ち出し(破壊かもしれない)だけは思い止まってもらったそうである」。戦後、現サムイル佐々木和雄兄が、亡父サワ勝雄兄と新しい木の八端十字架を鐘塔に取り付けたことを記憶している。
 女満別町に住むマイケル片田兄夫人のダリヤケイ姉の思い出は、前記した暗い出来事と事情は違うが、簡単に紹介してみよう。
「終戦直後、父ダニイル田中千松と一緒にいた頃でした。ある日の深夜に突然ドンドンと表戸を叩く音に、私と父は恐る恐る表戸を開けました。なんとアメリカ軍のジープが家の前に停まり、アメリカ軍のM・Pがいるではありませんか。私はびっくりして顔から血の引く思いでした。二世の方でしょうか、私たちに<あなた方はキリスト教徒ですね。戦時中、そのためにいろいろといじめられませんでしたか>と言う意味のことを聞かれ、<何もございませんでした>と答えるのもやっとのことで、間もなくアメリカの方々は”サンキュー”と手を振りながら帰っていきました」とあるが、これを裏返すと、戦時中における我が正教徒に対して、白系露人に加えられたような迫害は無かったであろうが、官民の目には決して温かいものでは無かったと思う。
昭和20年7月14日、15日の2日間、釧路は米軍機の空襲を受ける。焼失倒壊家屋1618戸、死者177名、重傷者46名を数えた。この時、現在東京に住むアンナ岡田ヒデ姉宅も焼失している。昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日、太平洋戦争終結する。