神現祭(1月19日~27日) とこれに先立つ降誕祭(同7日~13日)が復活大祭に次ぐ重要な祭であることは、神品が最も明るい色である"白色"の祭服を着ることや長い祭期※からも知ることができます。これはやはり白の祭服を着る顕栄祭(8月19日~26日、マトフェイ福音書17章「イイススの身体が変わり、その衣が光のように白くなった」出来事を記憶する)が示すように「人が神と交わることで変容すること、生活を(この世にありながら)神の国の生活と連続させていくこと」を教え、(その人々の集まりとしての)教会の意味・救いの意味を明らかにしています。 ※"大祭"は数日に渡るもので、当日(初日)から"末日"或は"復日"と言われる最終日までが祭期です。末日には当日と同様の奉神礼が(日本では行なわれていませんが)行なわれます。また"齋期"の長さも祭の重要度に応じているのです。

水が聖にされ、その聖水によってあらゆる物を成聖するのは、水があらゆる物に含まれる、この宇宙全体を代表し得る物だからと言われます。人間の身体も半分以上が水であることは良く知られています。神現祭の大聖水式に「日は爾(主・神)を歌い、月は爾をほめ、星は爾に伴い、光は爾に従い、、、」と祈るように、主の洗礼によって宇宙全体が再び創造主を讃え始めます。その先駆けが聖神に満たされた水です。同じように、私たちハリスティアニンは来るべき神の国の生活を、先駆けてこの世に於いて生き始めます。それがお互いがお互いを自分自身の如く愛し、全てのものを分かち合う(共同体としての)教会の姿です。

聖水をただ有り難がってもたいした意味はありません。そこにあるそれがただの水でなく聖なるものであることを信じるものは、洗礼によって人が聖なるものになることをも信じなければつじつまが合いません。あなた自身が聖水です。神と交わることによって、人は変容します。この変容が救です。あなたが救われる者となるのは、あなた自身が救う者に変容した時です。それは洗礼によって救主「ハリストスを衣た」時であり、聖体機密において「爾の聖神を我等およびこの祭品に遣わし給え。※」と祈りつつ聖変化に与る時です。 ※聖体礼儀の司祭黙誦文から。聖変化もまた、パンと葡萄酒だけでなく参祷者・教会全体に起こる出来事です。

"機密"とは「神の見えない神秘的な恵みを、見える物を通して人が受けること」です。ただし、ここに「人の変容と神の国への連続性」が忘れられてしまうならば、一見敬虔な言葉で飾り立てたとしても単なる(そして教会が禁じる)"おまじない"と変わりません。機密( μυστ?ριον :ミステリオン )の本来の意味は「家族の食卓(のようにそれ以外の者には開かれ得ないような親密性・一体性)」であって、「信徒以外は参加できない」というのは非常に端折った言い方に過ぎません。

正教会信徒は神・創造主を「天に在ます我等の父」と呼び「爾の旨は天に行なわるるが如く、地にも行なわれん。」と祈るように、神の家族となり、この世での生活も常に「神の国に連続すること」を目指していますから、人生そのもの・生活全体が"機密"となるべきものです。聖堂での奉神礼は、人生そのもの・生活全体の雛形として、"機密の中の機密・聖体機密"を中心に組み立てられています。聖水もまた、この宇宙の雛形として私たちとその周囲に振り掛けられ、私たちにも変容を促す機密です。

もちろん、聖水は「効きます」。体の具合が良くない時には飲んだり痛む部位に付けたりすると良いですし、春から一人暮らしを始める子供や孫が悪い誘惑に遭わないよう荷物等にたっぷり掛けてやると良いです。ただ、それらの効果(癒し等)は目的そのものではなく、喜びと平安のうちに神と交わる為の手段のひとつです。

聖水がそれを飲む者の霊と体との癒しとなるように、私たちは隣人の霊と体を癒す者となるべきです。この水を注ぐ物、家屋・車・仕事道具・田畑食物などが隣人を傷つけるものでなく恵に与らせるものとなるよう、争いではなく和平を育むものなるよう成聖されるように、私たちはこの世界を富んだ平和なものにしていく者となるべきです。聖水はおまじないの道具ではなく、私たち自身が聖なるものであること、あるべきことの証なのです。

(ステファン内田圭一)

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